目次

第1回 ソーシャルワーカーとしての日々

第2回 仙台で初めての講座を開く

第3回 大学教授になる

第4回 心と身体の関係

第5回 学ぶことは、体験すること

第6回 私たちの仕事にリタイアはない

 

第1回 ソーシャルワーカーとしての日々

サンフランシスコ市社会福祉局でソーシャルワーカーとしてキャリアをスタートした田中万里子先生。
田中先生が児童福祉司から社会・臨床心理学博士となり日本でInnerCore9をスタートさせるまでの 道のりと経験についてお話をお聞きしました。

田中先生

 

 

児童虐待問題のなかに身を投じて

田中先生はもともとサンフランシスコ市の社会福祉局にソーシャルワーカーとして勤めておられ、その後大学院で臨床心理を学ばれたというご経歴です。大学院進学のきっかけはどんなことだったのですか。
 
 
田中
ソーシャルワーカーとして勤めて10年ぐらいたった1970年代後半、新しい局長が赴任してきました。彼は「これまでの福祉を見直さなければいけない」というprogressiveな人でした。アメリカでは今でも、虐待を受けた子どもたちは少年裁判所による判定を受け、それによって措置が決まります。局長は「これまでのようなやり方のまま子どもたちが措置されると、成人するまで里親や施設という扱いで終わってしまい子どものためにならない。何とかして家庭復帰をさせるようにしよう」と考えたんですね。それで私たちは「お前らのこれまでのトレーニングはなってない!」としかられたんです。
この局長のえらかったところはただ叱るだけでなくて、どのようにこの問題に関わったらよいかのビジョンがあったところです。局長は市の社会福祉局で臨床心理学の修士、それも家族再統合を中心とした修士の育成のプログラムを作られ、応募したい人は誰でも応募していいと。その頃私は既にソーシャルワークの修士号は持っていたんですが、ちょうど仕事が頭打ちの状態で、どうやったら人がよくなるかを考えたいたときだったので、1年半の修士課程をとることにしました。
 
 
仕事が頭打ち…どんなことに悩んでおられたのですか。
 
 
田中
その頃担当していた虐待を受けて措置されていた子どもほど信頼関係をつくりにくいケースはなかったのです。子どもたちは常に恐怖にさらされて生きてきたので無理はないんですけれど。
私たちには子どもを守らなければいけないという立場があるので、子どもたちのことをよく理解することが必須でした。措置した子どものなかには、体じゅうにタバコでできた火傷のあとがあったり、背中に真っ赤なあざがあったり、オーブンの中に手を突っ込まれてひどく火傷している子、ぐつぐつ煮立ったシロップをかけられた2歳の子…そういうひどい目にあった子どもばかりがいたのですね。多くの場合子どもを措置された親は福祉による生活補助を受けることができず生活にこまるので、是が非でも子どもを返してもらいたいと思っています。それで、自分たちは十分後悔している、心理療法にも行ったと親はうそをつくんです。子どもたちも私たちには「家に帰りたくない」というものの、親には「帰りたい」という。そんなことで法廷でのトラブルが絶えなかったのです。おそらく子どもたちの心中は複雑だったと思います。一方では虐待の恐怖で家に帰りたくないと思い、もう一方ではこのままにしておいたら親に見捨てられるという恐怖もあるのです。しばしば虐待する親は子どもが悪いから罰すると子どもに言っているので、子どもの持つ罪障感と恐怖は複雑なものです。
そもそも、アメリカでも1960年代半ばまで、虐待の問題は取り上げられていなかったのです。里親制度や施設もありませんでした。アメリカで最初に虐待を受けて骨折させられたデンバーの子どもの世話をしたのは「動物愛護協会」だったんです。
 
 
動物、ですか?
 
 
田中
動物愛護協会には当時から虐待されている動物を扱うシステムがあったからです。ところが、「人間」にはそれがなかった。虐待されている人間の子どもを守らなければいけないと最初に考えたのが動物愛護協会だったわけです。それまで、「子どもは親の所有物であり、労働力である」という伝統的な考え方が西洋文化にはありました。聖書の言葉にも「子どもは棒で打たないとその子がだめになる」という言葉があり、子どもは悪いことをすれば叩きのめしてよかったのです。私よりも10歳くらい年上の世代の人に聞くと、学校の先生は生徒を気に入らないと、棒でおしりをたたく音が響いて聞こえ、怖い思いをしたという話や、悪い言葉を使ったら、口の中に固形石鹸を入れられて、口の中が泡だらけという苦しい思いをしたと話がしばしば出てきます。

虐待された子を扱うむずかしさは、虐待された子どもは、里親のもとでも、里親さんが虐待したくなるように仕向けてしまうのです。その子にとっては虐待を受けない時間はいつ次に虐待されるかを思うはかりしれなく怖い時間です。だから虐待を挑発するというのは、ノーマルな反応なんですね。叱られる、ひどい目に遭わされる。それが当たり前の日常だと、人が自分に親切にしてくれるなんて信じられないので挑発して怖いけれど、虐待をされると安心するというおかしな現象が起こるのです。また自分で挑発したことは棚にあげて、「虐待をしないと約束したのに、嘘つき!」と里親さんを咎め自分の怒りの炎を燃やし続けるので、深い信頼関係を築きあげるのがとても、とても難しいんです。こんな状態で仕事にゆきづまりを感じるのは当り前かもしれませんが、現場にいた私にとってはとても苦しい毎日でした。

今かここで話したことは大学院で学んだことによって初めて理解ができました。それまでは私たちの常識の範囲で動こうとしているから、物事が動かない。また欺かれた、でも子どもに怒るわけにはいかない…のくりかえしで、だんだん自己嫌悪になっていったんです。私は無力で何もできない、なぜこの仕事をしているのだろう…という状態ですね。
 
 
自己効力感を感じられなかった。
 
 
田中
はい。そういうときこそ勉強するのが大事なのですが、無気力になりがちでしょう。その時にちょうど局長が変わって「皆をトレーニングしなおしたい」と号令をかけてファンディングを獲得して学費にした。画期的なことだったと思います。
でも、私たちの同僚で、それを1年目に履修した人が15人、2年目にとった人が12人。やりたくない人、やらない人も多かったんですが、その人たちが局の不満分子になっていき「この子たちどうしようもないから、裁判所に出す書類は作るけど、まあフツーにやっておくか」という対応になっていくわけです。だって、希望を失っていくのだから。やはり、行き詰まったときに何か自分を刺激するもの、新しい道があることはとても大事だと思います。
 
 
 

大学院で家族療法を学ぶ

市のソーシャルワーカーをしながらの大学院生活はどんなものでしたか。
 
 
田中
授業に出るときは自分たちの時間を使ってくれ。ただし(実習として)ケースを見るときは勤務時間内で構わない、ということで昼間に修士課程の先生たちが大学から市の福祉局に出向いてくださって、ケースコンサルをしてくださいました。私たちが扱っていたケースは、専門家でも非常に難しいケースで、みんな頭を悩ませていました。ちょうどその頃、フィラデルフィアのDr.ミニューチンという方が家族療法をおやりになって結果を出していたので、ミニューチン博士のお弟子さんを指導教員として迎えて、1年半家族療法を習いました。
修士取得後は仕事がいろいろな面で面白くなりました。局長が新たに家族再統合特別プログラムをつくるということで15人中6人が選ばれました。1年~1年半の間に1人が15ケースを担当して、子どもを家に帰すか、親権をはく奪して養子縁組に出すというプロジェクトです。大学院での学びをもとに新しいアプローチを取り入れると、結果がある程度出るわけです。で、もっと勉強したくなって。
 
 
ああ、なるほど。
 
 
田中
そのころ局長からは「夜の時間帯に家族と会って、家族療法をしろ」という命令がありました。朝から夜遅くまで仕事をしなければならない。労働法上、もし、夜に仕事をした場合はその1.5倍の時間が休憩時間としてもらえることになっていました。週末に仕事をすることも少なくなかったので、かなりの代休がとれるようになりました。この時間を使ってもっと大学院に勉強しに行きたいと思い、毎週火曜日と木曜日の午前中、あとは夜間に通学してPh.Dをとることになりました。

第2回 仙台で初めての講座を開く